日々の泡を綴る うたかたの光を撮る


by bbking1031
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山田さん、どゆこと?

ちょっと前の記事になるが、松本尚志さんからいただいたコメントに次のような引用があったので、ちょっとだけ思ったことを書いてみる。

脚本家、山田太一氏は
「『あきらめるな』とよく言います。だから誰でもあきらめさえしなければ夢がかなうような気がしてきますが、そんなことはあまりない。頑張れば何でもできると思うのは幻想だと僕は思う。成功した人にインタビューするからそうなるのであって、失敗者には誰もインタビューしないじゃないですか」
と述べている。さらに、「人間は、生れ落ちた時からものすごく不平等なんです」として、国籍や容姿を選べないことなどを挙げて、「限界だらけで僕らは生きている」と指摘。

「そんなにうまくいかないのが普通なんです。その普通がいいんだと思わなければ、挫折感ばかり抱えて心を病んでしまう」
と説いている。そこで、山田さんは

「僕は一握りの成功者が『頑張れば夢はかなう』と言うのは傲慢だと思っています。多くの人が前向きに生きるには、可能性のよき断念こそ必要ではないでしょうか」
と主張しているのである。その後、山田さんはインタビューのなかで、「自己限定」を貫く生き方について語っている。
とのこと。


ぼくも「あきらめるな」とよく人にいう。
無差別にいうわけではない。
「いけそうな人」にいうだけである。
「がんばればなんでもできる」とは思うのだ。
すくなくとも「がんばらない人」よりは、格段に可能性は高くなるにちがいない。
別に山田さんがいまさらいうことでもないと思うのだが、何か含むところがあったのではないだろうか。
それがなんだが知りませんが。
諦めがつくまでやったらいいじゃないかと思うのだ。
中途半端にやったら諦めもつかないし、一生糞切れの悪い感じで生きていかなくちゃならない。
「あのときああしとけば」とか「もうちょっとやっとけば」とかいう思いを酒の肴にして余生を過ごすのも悪いとは決めつけられないけど、ぼくはそんなの嫌だな。
山田さんの「自己限定」とかいうのもことば足らずのような気がする。
真意はもっと深いところにあるようだ。
「可能性のよき断念」なんてね、だれだってやってる。
たまたま「可能性のよき断念」ができない人がお知り合いにでもいたのではないかと勘ぐっている。
彼の周りには脚本家志望とか売れない役者とか、そういう人いっぱいいそうだ。
ぼくは高校時代演劇部にいたし、劇団にいたこともあるから、そういう人いっぱい見てきた。
ぼくは劇団のだれよりも芝居が下手くそで、周りにすごい先輩がいっぱいいたから助かった。
「こんなに凄いのに仕事ないんだ。ぼくじゃ無理だな。」とか。
大学いって音楽やろうと思ったら、山田邦喜(山田幸治)という天才ドラマーと知り合って、その練習量とか本気加減とかに触れて、とてもぼくが太刀打ちできる世界ではないということを思い知った。
ギターの奥田茂雄もギターを諦めさせてくれた。
こういうハンパでない連中がたくさんいてくれたおかげで、いろんなことに諦めがついた。
詩人会にもいた。
これだけはどうも、これは凄いという人に出会わなかったのだ。
それでいまでも詩を書いているというわけである。
これが詩についてだけは「可能性のよき断念」ができない理由である。

因みにぼくの職場にはこういう糞切りの下手な人がいっぱいいる。
モラトリアムだな。
人生とか仕事とかにアンガージュマンしてない感じ。
自分の人生を先延ばししている。
「こんな自分ではないはずだ。」とか「この会社ではなくもっと違うところにいるはずだ。」とか「私はほんとうはこんな立場いるべきはずではない。」とは思いながら、それなりの努力もしていない。
これは、どこか「甘えの構造」が作用しているような気がしてならない。
自分の能力を自分で客観視できる能力が欠けているようにも思うし、また、人生に対してへっぴり腰では何も変わらないとも思うのだ。
「だれもぼくのことをほんとうに理解してくれない。」とか。
みんな自分のことで精一杯なのだ。
きみも精一杯やってみたら?
諦めがつくまでさ。
by bbking1031 | 2008-03-13 00:17 | 日記